by suisei09
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「~出身です」
よく自己紹介などで目にする文言である。 先日ぼくが二十数年ぶりに下関を訪ねたことを書いたが、いつも困るのがこの出身地である。 ぼくは生まれてからこの方、それなりに生活の場を変えてきた。 それは親の仕事の関係であって、確か生まれ出たのは青森県八戸市。それから岩手県奥州市江刺区、東京都沼袋、ペルー・リマ、山口県下関市、埼玉県上尾市。 とりあえず高校までの生活した土地としてはこのくらいだと思う。 沼袋はうっすらとひっそりとした記憶はあるものの、八戸に関しては全く記憶にございません。 それで結局上尾市に住んでからは高校浪人を経て大学入学とともに一人暮らしをはじめるのだけど、それまで意識することのなかった「出身地」に関して気になり出したのもこの時期である。 たとえばプロフィールなるものを作るときにふと手が止まってしまったからである。 なにしろ両親が二人とも岩手県出身なのだが、ぼくの記憶はほぼペルーから始まっている。 そのときの訓戒としては「家にいるときは日本語(標準語)でしゃべる」だった。 幼少期は言葉の習得率が高く、親の話によるとペルー在住時にスペイン語を一番操っていたのはぼくなのだということだった。 ペルーの家には家政婦がいて(日本人居住者では標準だった)、マリアとかフアナと言った名を持っていたのだが、その家政婦たちとそういえばスペイン語で会話していた気がする。 ただ、親が気にしていたのは帰国後、日本で日本語がしゃべれなくなったら大変だと言うことで、厳しくスペイン語を律された記憶はある。 帰国後、下関に来てまた驚いたのが「下関弁」だった。 なにしろ家庭内ではずっと標準語だったのに、いきなり行った小学校ではみんながみんな、「~やけん」だの「ぶち~」とか、全然わからない言語を話しているのだった。 こっちとしてはそれだけでも驚異なのに、向こう的には帰国子女が珍しいのも手伝って、馬鹿にされたり無視されたりと、よくわからない待遇を受けた。 それでも一年二年と過ぎるうちに近所の友達は増え、十人前後でワイワイと遊ぶことも頻繁にでき、暇なときは誰かのうちに電話をすると遊んでくれる、といった日々を過ごせるようになった。 ぼくを相手にしてくれるようになったのには理由がある。同学年に「浅井洋平」くんという金持ちのぽっちゃんがいて、その浅井君がじつは学年の権力者で、「細川くんは洋平二号(パーマン的な意味で)だな」という免罪符を与えてくれたのだ。それまで何も持たず、どう接していいかわからなかったぼくはその「命名」に感動したのを覚えている。つまり今思えばソシュールがいうところの、存在を与えられたということなのだろうと思う。そしてそれ以降同学年の人たちが心を開いてくれたのは確かなので、浅井君にはかなり感謝。 あと、だれも遊び相手がいないとき、浅井君ちに電話をするとたいてい何人かが集まってファミコンをしていて(当時ファミコンを持っている人は少なかった)、「遊ぼう」というと浅井君は快く招いてくれたりしたのだった。 そんな日々が小学校五年生まで続き、実はその日常は続いてしかるべきものだと信じて疑わなかったのだが、あっさりとその神話は覆された。 埼玉に転校してしばらく不登校になったりして、なんだか参った。実際に一番参ったのは親だっただろうと今になっては思うが、土地が変わるというのは結構幼心には大事で、今まで常識だと思っていた文化の否定からはじめなくてはいけないというのは本当に大仕事だった。 昨年、宮台真司氏と東浩紀氏の対談集「父として考える」を読んでいて大きく頷いたのだが、やはり親が思う以上に与えられた環境というのは子供には重要で、そんな中でも宮台氏は二十数回転校を繰り返し、そのコミュニティに食い込む嗅覚を習得したらしいが、ぼくはもちろんそんなに賢くもなく、ただただ戸惑っていた。(「焼きを入れる」とか「絞める」みたいなこともあった。なんでそんなことをされるのかは納得できなかったが、つまりコミュニティに参加すると言うことはそこのヒエラルキー(小・中学校だと暴力に依存する)に組み込まれるということであり、未知の対象に対してその位置を確定させる儀式のようなものなんだろうと理解はした。) それこそ今だったらネット上で、mixiやTwitter、Facebookをしていれば離れた土地にいてもつながりを持ち続けることもできるのかも知れないが、当時はせいぜい手紙のやりとり。筆無精ともなれば手紙も早々に途絶え、それとともに交流もなくなるという構図で、つまり埼玉に来るまでの十年間あまりは、人脈として積み上がっていかなかった。 それから埼玉では第二次性徴と思春期を過ごしたわけだが、その時期はつまり現実から一番離れていた時期でもある。 第二次性徴の時期はアニメにどっぷりはまっていて(今でもどっぷりに違いはないのだけど)、当時はしかも「オタク」というものは市民権を与えられていなかった立場なので、日陰で漫画を描いているような人種だった。ワタルとかグランゾートとかの二次創作をしていた。あと「ふしぎの海のナディア」にドはまりして、アトランティス大陸を探す旅に出ようと考えていた時期でもある。それから考古学者になりたいと思い始めたのもその時期だった。非実在青春だった。 で、ただ、本当に当時「オタク」という言葉がどうにも誹謗中傷の用語として使われていて、そう呼ばれるのが悲しくて悔しくてしょうがなく、このままじゃいかんということで、高校入学とともに脱オタクを試み、バスケットボール部に入るのだった。スラムダンクの影響もある。もちろん。 と、こういう風に埼玉県ではいろいろ非リアル・リアルと謳歌していたのだが、じゃあ出身地は埼玉か、といわれるとどうしても頷くことができない。 それは血縁的にもその土地には何もないし、幼い時分の記憶もない。親戚もいない。友人はいるが、それは出身地には関係ない。埼玉県には自分の「出身」に繋がる要素が希薄なのである。 親は岩手県をふるさとにしているのだが、かといってぼくにはその記憶は語れるほどない。 じゃあいったいどこが出身地なのかというと、それはやはりペルー、もしくは下関なのではないかと思う。 あの時期、目に見える世界が全てではじめて触れるものばかりで、その中で自分の存在を象っていったというのは今更ながら大きな事だったのだと思う。 だからといって胸を張って「ペルー/下関出身です」と言えるほどそこにスピリットを置いてきたわけでもないのだが、それでもすっと腑に落ちるのはその二つの土地なのだ。 次点で岩手県。 実は両親は東北弁を使わない。むかーし、「恥ずかしい」ということを聞いたことがある。 だけどぼくは東北弁が好きだ。浪曲のようだし、何言ってるかわかんないけど、たとえばイケメンとかモテガールとかが東北弁しゃべってたら嬉しくなる。なんか許せる。 言語で、ドイツ語で会話をすると喧嘩になるが日本語で会話をすると円滑に進むとよく言われるように、標準語で喧嘩になるとしても東北弁だと朗らかな空気になる気がするのである。 それは親の出身地を密かに誇りに思っているからに違いない。そしてだから埼玉県より岩手県のほうが出身とするなら望ましいのである。 こうして考えていくと最終的に結局空白を埋めるためにいずれの土地をあてがうかという話になるのだけど、こんだけ言っといて結局毅然として言える出身地なんてものはなくて、んで、小さい声で「埼玉県出身です」と答えてしまう姿が目に浮かぶし、今までもそうだったなあと振り返った。 答えは出ない。これからもこのことは折々で考えていくことなのだと思う。おしまい。
by suisei09
| 2011-02-14 04:24
| 細川洋平
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